| 15平方メートルの店内に数千点のスタンプ ニューヨーク唯一のスタンプ専門店 |
しゃれたブティックや、カフェ、ケーキショップのひしめくウェストビレッジの一角に、「インクパッド」はマッチ箱のような店を構えている。店内の面積は15平方メートル弱。しかも、隣の雑誌屋の敷地が突き出ているせいで、「く」の字形のいびつな形をしている。壁に所狭しと並べられたスタンプは数千個。商品を落とさないよう、気をつけて歩かねばならない。いつの間にか忍び足になり、息さえひそめてしまっている。が、それでも、落としてしまうことがある。すると、「お気になさらず。ここでものを落とさない方がおかしいぐらいですから」と天の声ともいうべき店員の声が響く。 扱っているのはスタンプ関連グッズだけという専門店なのだが、開店してすでに6年、賃貸料も人件費も高いマンハッタンにしっかり根を下ろして、存続し続けている。 |
それにしても、スタンプ一つでどうやって顧客をキープし、新しい客を開拓して、ニューヨークの厳しい競争を乗り越えているのだろう? この小さな店のサーバイバル術には、何か大いに参考になるものがあるはずだ。インクパッドのオーナー、アンナ・チャンさんに一日の平均客数や平均客単価などを尋ねてみたのだが、アンナさんは弱ったという顔をして、「わからないなあ」「まちまちで、一概に言えないわね」という答えを返すだけだ。店の床面積でさえ、歩幅で測って答えてくれたほどだ。ロケーション選びも、「ビレッジが好きだから」、品揃えも、「自分の好きなものを選ぶ」と答える。 |
元はといえば、ここで風船とパーティグッズの店を開いていた。店の片隅においていたスタンプの売れ行きが伸びていって、ついにスタンプ専門店に切り替
えたそうだ。「ニューヨーク市の5つの区には一軒もスタンプの専門店がないので、やっていけると思ったのよ」とアンナさんはさりげない。しかし、顧客の一人、ゲイル・ジョンソンさんが「アンナはなかなかのやり手だわよ。一度行っただけで覚えていてくれて、2度目に行ったときには、ちゃんと名前を呼んで挨拶してくれたのよ」と耳打ちしてくれた通り、実は、アンナさんは方針をしっかり持って店を動かしている。 まず、店の看板ともなる従業員の人選には特別の注意を払い、人好きのする、感じのいい人を念入りに選ぶ。インクパッドでは、親切で愛想のいいサービスをモットーにしている。顧客のほとんどは、サービスの良さを店の魅力の第一に挙げている。 |
| 「一番のチャレンジは関心を持ってもらうこと」 クラフト教室やフェアで顧客の興味をひきつける |
| また、「一番のチャレンジは、客に引き続き関心を持ってもらうこと」と言う通り、店ではいろいろな企画を用意している。たとえば、手作り教室。スタンプだけでなく、カリグラフィーやビーズのブレスレット、ミニチュア水彩画などの教室も開いている。 「というのは、何らかクラフト作りをしている人は、一つだけでなく幾つかしていることがほとんどなんです。関心のあるクラスに来たついでに、スタンプに興味を持ってくれるということもあり得るんです」とアンナさんは言う。 教室は、コミュニティ・センターの一室を借りて開くこともあるが、ほとんどの場合、店内の猫の額のようなスペースに折りたたみテーブルを広げて行う。「コージー(心地いい)でしょ」とアンナさんは言うが、コージーというよりも、窮屈といった方が合っている気がする。クリスマス前に開かれたカード作りの教室でも、参加者はひじをぶつけては謝り合いながら、カード作りに挑戦していた。でも、確かに、和気藹々としていて、ぎゅうぎゅう詰めになっているのが楽しそうでもあった。 この日の講師は、店のジェネラル・マネージャーのマーク・フランカさん。「スタンプでどれだけたくさんの可能性が開けるか、ほとんどの人は知りません。スタンプというと、オフィスで使う『SOLD』(売却済)というゴム印しか思い浮かべないんです。でも、実は、特別なインクあり、紙あり、スタンプはなかなか奥が深いんです」とマークさんは言う。 マークさんは、この日は、アウトライン・スタンプとクリスタルを使い、厚みのあるカードの作り方を教えていた。こんなにすばらしい手作りのカードをもらえば、感動ものだ。ほかにも、マークさんはスタンプを使ってできる数々の可能性を店内のあちこちにディスプレーしている。絵心がなくても、スタンプなら気軽にできる。インクを選べば、布地にだってスタンプできる。スタンプを事務の道具としてではなく、その向こうに広がる楽しい世界を、マークさんは紹介している。 また、インクパッドでは、一年に一度、クラフト・フェアを主催し、一番の顧客であるアーチストをサポートしている。インクパッド側は場所と食べ物や飲
み物を用意し、アーチストはそこで展示即売会を開く。こうして、インクパッドは、顧客と「持ちつ持たれつ」の関係を築いている。ゲイルさんが言っていた
「昔ながらの店の良さ」とはこういうところを指すのだろう。インクパッドは、ビジネスを数字で解決しようとしない。しかし、そこにはちゃんとした経営方針がある。常に新しい商品を取り入れ、ディスプレーを工夫し、スタンプを使った数々の提案をし、フェアや教室やバス旅行などを企画して、客を楽しませ、満足させるための努力をしている。小さいなりに一生懸命やっているのが伝わってきて、いっしょになって応援したい気にさせてしまう。たとえ強盗が押し入っても、この店はちょっと許してやろう、と銃をしまい、他の店に出直す気にさせる、そんな趣のある店なのだ。 新しい客を開拓するために、雑誌に広告を載せたり、展示会に参加して模擬店を開いたりもしているが、インクパッドは、口コミの力がやはり強い。この店のことを知ったのは、やはり人から教えてもらったからだ。人に教えることができるのは、フレンドリーでいながら、さらりとしてさりげない、感じがいいサービスのせいがある。また人にすすめてわざわざ足を運ばせても、がっかりさせないような楽しい品揃えのせいもある。インクパッドには、紋切り型の量販店 にない、個性があり、発見の喜びがある。 「毎日来てくれるお客さんだっています。ちょっとしたものを買って、自分にごほうびするのよね」とアンナさんも言う通り、インクパッドは、何度行っても、見ているだけで楽しい店だ。 必ずしも価格と品質だけで、消費者はものを買うのではないと思う。商品の向こう側にある世界を楽しむために買ったりしたって、不思議はない。そして、インクパッドは、ただ単にものを売る場所ではなく、ものとの出会いの場を提供している。 顧客とファーストネームで呼び合う「近所のお店」として存続するインクパッド。今日も人が訪れてマッチ箱のような店内が満杯になっている。 |
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| 外海 君子(とのがい きみこ) 上智大学外国語学部英語学科卒。アメリカの大学院、イェールを経て、コロンビアで国際関係学の修士号を取得、国連イン ターン、ワシントンの報道機関勤務を経て帰国。帰国後は、通訳、TV報道番組の多重翻訳などに従事した。現在はニューヨーク在住で、ライター、翻訳業。ホビー関連書籍の翻訳も多い。文具好きで、ニューヨークのステーショナリー事情に詳しい。 |
| 初出 旬刊ステイショナー2005年1月5日号 |